20歳の頭の中

20歳の現在の考えを表していくブログ(?)です 年をとるにつれて考え方が変わっていくと思ったのでそのときの考え方を大切にしたい

Youtuberアバンティーズ エイジの訃報について私が思う生と死の境界線について

Youtuberで活動しているグループの「アバンティーズ」のエイジが年末年始の休暇でサイパン島に旅行に行っていたところ、波に飲み込まれ亡くなった事故があった。

 

22歳の若さであった。チャンネル登録者110万人を超える人気のグループのメンバーだったためにニュースでは大きく取り上げられている。

彼らは動画のネタでドッキリを頻繁に行っていたために、ファンの間では「これも大掛かりなドッキリだよね?」と悲しい事実を信じることができていない人も多いようだ。私も直前まで彼の元気な姿をYoutube上でみていて、未だに信じられていない。

人が死ぬときって他人に忘れられてしまったときだよね。って、言われているところを時々見ることがある。今回の事故に関しても彼らの動画のコメント欄にもあった。

私も数年前まではなるほど、そういう考え方もあるよなあと感心していたが、このごろ疑問に思い始めた。

 

というのも、戦国時代の上杉謙信武田信玄という二人の武将にフォーカスを置いてみると上杉謙信は名誉を大切にする武将であった。逆に武田信玄は名誉という物理的に形のないものより腹を膨らますための食べ物など、形のあるものを大切にしていた。

相反する二人の考え方は、どう形成されていったのだろうか?

幼少期などに形のあるものに固執しなければいけない境遇にあっていたのだろうか?

いずれにしてもこの例のような性格の違いは興味深いと常々思っている。

上杉側の考え方としては、先述した人々の記憶から消えてしまったときがその人間の死亡であるとした考え方は、他人から見た客観的思考に帰着するものであると個人的に感じる。

死後の世界が実際にあって人に忘れられるまで幽霊となって精神的に生きているとして忘れられた瞬間に消滅するシステムがあるのだろうか?確証がない上に、生きている人が考えたアイデンティティーであるから、ある種、葬式やお墓と似た概念であると思う。つまり、これは私が個人的に考えている概念であるが、葬式というのは死亡した人間の周りの人が区切りを付けるものであると思っている。式というのはなんでもそうだが、区切りを付け、内的に自分に言い聞かせるものだと思う。彼はもう死んだのだから、悲しいが前に進もう、それでも生きていかなければならないと区切りを付けるために生まれたものであると思う。葬式の儀式というのは宗教が生まれる前からのものであるからだ。

動物のゴリラも仲間の死を悲しみ、弔うのだという。過去に手話のできるゴリラに死についての価値観を聞いた研究があったが、死ぬと狭いトンネルを通って行くのだという価値観があるらしい。とても興味深いと思う。

話がそれてしまったが、私はお墓は死んだ人を弔い、忘れないための手段だと思っている。死んだ人間の意向というよりは生きている人たちのためのツールとしての割合の方が大きいのではないかと思う。先述の考え方はこの概念から生きている側が無意識のうちに生み出されていると考えているが、実際のところ本人としては肉体がなくなったときに死んだのだと感じるだろう。私も死んだときは、そう感じるんじゃないかなぁと勝手に思っている。死んだことないから分からないけど、、

私は目に見えない名誉よりも形あるもの、お金や、お金で買えるものをより大切にしているし、今は清貧より裕福を優先する。実際、無意識的にこのように考えている人は多いのではないだろうか。勿論、名誉も大事であるが。

生と死の境界線というのは主観的に見れば肉体的に死んだときが境界で、客観的に見れば忘れたとき、いわゆる精神的に死んだときというものなのではないかと現時点では考えている。これはあくまで現在の私の個人的な考え方である。

これを読んでいる読者はどう考えるだろうか?